世界遺産検定1級 まとめノート2-6.平泉・富士山・富岡製糸場
16.平泉‐仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群‐
(1)概要
- 登録:2011年、基準:24
- 12c末の末法思想とともに興隆した浄土思想の仏国土(浄土)を空間的に表現することを目指す
- 大陸からの伽藍建築・作庭思想+日本古来の水辺の祭祀場の水景の理念・意匠・技術
- 浄土思想は現在も宗教儀礼や民俗芸能に伝承
- 金鶏山、中尊寺、毛越寺、観自在王院、無量光院で構成
(2)歴史
- 11c末、豪族の藤原清衡は平泉を政治・行政の拠点とし都市建設開始、「現世の仏国土」目指す
- 奥州の主要な産出品の金などを京都の中央政権と公益
- 1105年清衡は平泉に遷都、中尊寺造営、1124年境内に金色堂建立、阿弥陀如来の仏国土を表現
- 1128年清衡死去、2代目基衡、慈覚大師円仁によって開かれた古寺の毛越寺再興
- 基衡の死後その妻が観自在王院建立
- 3代秀衡無量光院建立、政務と生活の場の居館と極楽浄土を表現する寺院が東西に並ぶ景観完成
- 1187年源義経が清衡の兄の迫害逃れ秀衡のもとに身を寄せる
- 1189年4代泰衡が義経を襲撃し自害へ追い込むも、頼朝の軍勢の侵攻で奥州藤原氏滅亡
- 鎌倉幕府の保護(毛越寺、中尊寺焼失)、室町時代一般庶民からの信仰で繁栄
(3)構成資産
平泉中心部の西の標高98.6mの小丘、方位を示す目印、山頂に経塚、各寺院の浄土庭園で仏国土を空間的表現する際に重要 |
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清衡建立、「供養願文」(奥州の戦の霊を浄土へ導く、仏国土造営の思い) |
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1124年清衡建立の阿弥陀堂、方三間の阿弥陀堂建築の中で国内最古(方三間:●ー●ー●ー●、●=柱)、中尊寺で唯一現存する創建当時の建造物、堂内に藤原3代の遺体、4代泰衡の首級の須弥壇 |
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基衡建立、ほとんどの建造物が失われたがかつては40の堂宇と500の禅坊、遣水は平安時代の以降としては日本で唯一かつ最大、薬師如来の仏国土を表す浄土庭園 |
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秀衡建立、平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)をモデル、4月・8月に仏堂背後の金鶏山山頂に夕日が落ち、建物全体が後光で光り輝く(西方極楽浄土の観想を目的) |
17.富士山‐信仰の対象と芸術の源泉‐
(1)概要
- 登録:2013年、基準:36
- 富士山域を中心に2の構成資産
- 修行や巡礼で霊力を獲得し「擬死再生」の文化的伝統(儀礼的象徴的な死と誕生・再生)
- 19c葛飾北斎、歌川広重の浮世絵、海外にも影響
- 2013年委員会で、
・文化的景観の手法を反映した全体構想(ヴィジョン)
・来訪者に対する対策
・登山道の保全計画
・情報提供戦略
・危機管理戦略 等の作成、提出が求められた - 保全計画書を提出、2016年、2019年に保全状況の報告
(2)歴史
- 噴火を繰り返す神秘的な山として「遥拝」の対象、8c以前から遥拝の場所に神社建立
- 8c末、火口に鎮座する神を「浅間大神」として祭り、富士山そのものを神聖視する信仰
- 806年天皇の名で富士山本宮浅間大社の前身とされる神社が南麓に建立
- 865年河口浅間神社の前身とされる神社が北麓に建立
- 11c火山活動が休止期に入り、山岳信仰、密教、道教が融合して修験道が隆盛、「登拝」開始
- 登拝の起点の登山口には新たな神社が建立(後に須山浅間神社、冨士浅間神社)
- 16~17c長谷川角行、人穴に籠もり、五湖や白糸の滝で「水垢離」などの修行→「富士講」
- 18c後半富士講は一般に流行、本道の吉田口登山道の起点に北口本宮冨士浅間神社の境内が整備
- 登山口では「御師」が宿泊、食事、巡礼路の案内、御師住宅の集落も形成
(3)構成資産
長谷川角行の修行入滅の風穴「人穴」中心の遺構、約230基の碑塔群、13c「浅間大神の御在所」とされ、「吾妻鏡」に霊的体験の記述残る |
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806年平城天皇が坂上田村麻呂に命じ浅間大神(木花之佐久夜毘売命)を祀る神社として創建、各地浅間神社の総本宮、山宮浅間神社から分祀、山頂に飛び地の境内地(幕府認める) |
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山宮浅間神社 |
富士山本宮浅間大社の前身、境内に本殿はなく遥拝所があり古代祭祀の形式を示す |
1480年に「富士山」の鳥居が建立、16c社殿整備、社殿の背後に登山門、吉田口登山道、江戸時代まで吉田の御師が宮司や禰宜を務める |
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吉田口登山道 |
北口本宮冨士浅間神社から山頂に至る登山道、18c以降富士講の登山本道 |
御師住宅 |
北口本宮冨士浅間神社の門前に集落形成、小佐野家住宅、旧外川家住宅の2つが登録 |
18.富岡製糸場と絹産業遺産群
(1)概要
- 登録:2014年、基準:24
- 西欧の技術と日本に技術が融合した和洋折衷の建造物群
- 製糸場は木骨レンガ造、トラス構造の屋根組み
- 製糸場の他、「田島弥平旧宅」「高山社跡」「荒船風穴」の4資産が登録
(2)歴史
- 鎖国のため近代技術導入に遅れ、江戸時代末期の海外輸出需要拡大に対応できず質低下
- 明治維新後「富国強兵・殖産興業」、主要輸出品の1つに生糸
- フランスからポール・ブリュナ招聘
- 資材の窓ガラスや蝶番はフランスから、石や木材は群馬県内、レンガはブリュナ指導で生産
- 1871年起工、1872年日本初の官営工場である冨岡製糸場完成・操業開始
- 工女を全国募集、士族の子女中心、後に習得した技術を日本各地に広めた
- 周辺で「繭の改良運動」(田島家、高山社、荒船風穴)
- 1893年製糸場は三井家に払い下げ、別の民間事業者に引き継がれ、1987年操業停止
(3)構成資産
1872年明治政府設立、和洋建築技術融合の繭倉庫や繰糸場などがほぼ建設当時のまま残る |
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1863年通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を確立した田島弥平建造、建造の主屋兼蚕室、瓦葺総二階建て、喚起のための「越し屋根」、国史跡に指定 |
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高山社跡 |
痛風と温度管理を調和させた「清温育」を確立した高山長五郎の生家、清温育は日本の標準養蚕法となり、国内外に技術が伝えられた |
荒船風穴 |
1905年建造、岩の隙間からの冷風を利用した国内最大規模の蚕種(卵)の貯蔵施設、当時は年1回(春蚕中心)だった養蚕を複数回可能とし増産に貢献、国史跡に指定 |